昭和五十三年五月三十日 朝の御理解


御理解第八十五節 女の身の上、月役、妊娠、つわり、腹痛まず、腹帯をせずして、産前、身軽く、隣知らずの安産。産後、よかり物、団子汁をせず、生まれた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ 、頭痛、血の道、虫けなし。不浄、毒断ちなし。平日のとおり。


 教祖様のお言葉をそのまま信じ、そのままに行じていくという純粋な心が、信心には求められるのですけれどもね。
 例えば、八十五節なんかを本当に教祖様がそうおっしやっておられるからと行じきれたら素晴らしいと思うですね。所が少しばかりの常識とか知識が邪魔をしてなかなかそれを行じる事が出来ません。親先生はああ云われるけれども、とけれどもがつくわけでございます。
 最後に不浄毒断ちなし、平日のとうりと。私どもの生活の全面の上に、この不浄毒断ちなし平日のとうりといったような一日一日の信心生活が出来たら、さぞかし素晴らしい信心生活が出来る事だらうと思います。
 人知、人力が、みんな邪魔をする。私は今日は「馬鹿と阿呆で道を開け」というあのう福岡の初代が頂かれたという御教えを合楽ではこの御教えを尊重して、私自身も頂いて参りましたが、この御教えが合楽の皆さんの信心生活の上にもここは馬鹿んなっとかんにぁん、阿呆になっとかならんというような生き方をなさる。云うならば成り行きを大事にしながら信心を進めていかれるわけですけれども。今日は私は本当にね、平日のとうりというのならここん所がね、その馬鹿と阿呆で道を開くという今日私が申しますその事を、が頂けるようになったら素晴らしかろうと思うんです。
 そこまでに至るまでが、だから信心修業田と思います。三代金光様の御在世の頃だと思うんですけれども、御信者の中にやはり理髪屋さんやらいくらも居ります。金光様の散髪の御用をさせて頂きたいという者が沢山居りそうなものだけれども、金光様のお髪に触れては勿体ない、それこそ、手が震うというて誰も御用頂く人が居なかったそうですね。ですから待ちの理髪屋さんがいつも見えたという事です。
 私は自信がある。だから金光様の散髪したり髭をあたらせてもらうとい人が無かったそうです。いうなら、今日の御理解からいうと、なかなか平日のとうりで。金光様であろうが見せのお客さんであろうが、おなじ気持ちです。それは信心のない人でなければ出来る事じぁない。なまじっか信心があると、もう金光様のいうならおつむに触る事すら、勿体のうして恐れ多いとこういうわけね。だから信心を頂いて云うならば信心の無い者のような心の状態。まあ、今日申しますね、平日のとうりというおかげを頂くという事は、そのようにいわば難しい事だという事です。
 私も散髪なんかにも来て下さいます。ここの田中初美子さんの借家に住んでおられますから、あちらが先生の散髪の御用だけは私がおかげ頂きますから、どうぞいつでも、あちらの散髪屋さんに云うて下さいというので、月に三回だけ来ています。いつも自分が繁雄さんが御用頂いておられる時分ですから、もうお湯のタオルを替えるのを全部いうなら助手をして頂くわけですけれども。いつも繁雄さんが、ちょいとこの散髪屋さんばかりはろくそなかろくそなかち云うわけです。もう、そりぁすっとり早いこつはそうにぁ、すっとり早かばってん、ちよいとろくそなかと、繁雄さんはいつも横から見てそう云われるわけです。
 昨日も来て貰いました。小さい子供を連れてやって来たんです。それで、その子供に気取られてからでしょう。しまえちしもうてから、すみません、こことここは切りこみましたばってんち云うちから帰ったです。ね。そりこそ、平日のとうり。自分方に来る お客さんと同じような気持ちで剃ってくれるわけ。だからすっとり早ようばたばたやってくれるから、私も都合がいいわけです。
 福岡に清松さんという女の理髪師の方が熱心に参って来ます。お休みの時には必ず御用頂いて下さる。家の沢山の子供達の散髪を皆やって さるんです。親先生の髭が伸んどるから、あなたちよっとおかげ頂いて下さらんですか。「いやっ」ちから云われた。それは好かんけんじぁない。云うならば親先生の顔にはあたられんとこういうのですね。本当にやっぱ、もう緊張して切りこまれるかも分からんです。平日のとうりとはそんなに難しい事です。
 だから私どもがだんだん信心をさせて頂いて、いうなら信心の匂いがぷんぷんする。昨日の安東さんの場合それこそもう信心の匂いがぷんぷんする。もう魚買いに行きゃ魚屋さんで話される、自動車の中じあったら自動車の中で話される。もうそれこそあのう丁度その時食糧品屋か何かに行って一生懸命金光様の話しをしょんなさったら、丁度そこのおまわりさんがやって来なさった。そしたらそのおまわりさんを捕まえてとにかく合楽理念を聞きなさいというて聞かせたと云う。
 とにかく合楽の信心は云うならだんだん熱を帯びて来る。白熱して来るとね。そういう事が平気で出来るね。しかもそうせずにはおられないという心の状態がね、熱して来るという事だけじぁなく白熱化してくるわけですね。福岡の川上さんなんかがそうです。バスの中であろうが電車の中であろうがもう絶えずお道の新聞とおかげの泉だけはちゃんと持つといてもう皆さんにそれを見て下さいよそれを見て下さいよと。そして話して廻わられる。だから信心の匂いがぷんぷんである。
 匂いがぷんぷんといえば、昨日安東さん一家でお礼に出て見えてから、本当に有難いああしてお祭りをしてもろうてお礼を申させて頂いとりましたら、私は昨日の御理解の皆さんが昨日の御理解をあのうラッパ節を。昨日の御理解はあのラッパ節一つに込められておるんです。実は。
 ですから、あの内容からあのうなお深う分かって下さろうと思うてからのですけれども。昨日安東さんがお祭りのお礼を申しておられましたらね。鯛が鯖を食べてどんどん太ってゆくというお知らせを頂かれたんです。昨日の御理解の意味が深く分かるでしょう。
 鯛がね、鯖を食べてどんどん太ってゆくというお知らせである。鯖というのは佐田さんの佐という字を書いて馬という字 を書いたらいいです。佐馬のお知らせは、合楽的めぐりともいわれております。そういうそれこそ業と云おうかめぐりと云おうか、どうしょうのないような、そのめぐりがあるおかげでどんどん大きくなって行っておるというのです。そうした所もやはりこりゃ、まあ昨日の御理解の裏付けになるような事ですから聞いて頂いたけれども。そういう所を通りながらです信心の匂いがぷんぷんする所からそれがだんだん穏やかになり、いわゆる確信に満ちた信心生活、それこそ有難い勿体ないの信心生活、そこにはね云うならばもう何んというですかね、穏やかな信心の匂いが云うならば信心の徳の香りとでももうしましょうかね、徳の香りが漂うようなおかげになって来るんです。そういう時にはです、それこそいつも平日の通りでおれれるような状態の時を云うのではないでしょうか。
 お互い一つの過程としてです、始めの間は本当におかげおかげとおかげ信心だったのが心゛心の云うなら何たるかが分かるようになり、教えがそれこそ素晴らしいフィリングも育って来て、教えを頂いて詳しゅうなるだけじぁなくて、それを感じて帰り、それを行の上に現さずにおれない。その現さにぁおれん事がです、云うならば信心の無い人達にでも、それこそ示現活動せずにはおられない程しのならだんだんだんだんなって来なければ駄目だと思います。ね。
 だからあの場合には毒にもなりぁ薬にもなるという時代なんです。
 蝮なんか、そりぁ大変な人の人命でも奪う程しの毒を持っておる。けれども、その毒変じて薬になる時にぁ大変なお薬になるようにね。私がまあだ何ちゅうですかね。荒い削りの修業をさせて頂いとる時、昔あのう桶風呂、鉄風呂ちゅうのがありますよね。お風呂を私が沸かしておる。そしてお風呂ん中に入ってああ極楽極楽と云うてお風呂を頂いておる。所が周囲の人周辺の人は、私がゴム草履のもう突っ切れたのやら、タイヤの破れたごたるとばどんどん燃やしますもんね。所が匂いが発散するでしょう。もう近所んもんなたまらんです。
 お前の信心を本当に帰依して頂く者は、ああ、大坪さんの話しを頂いて助かったというて極楽のごとなっとるばってん、その周辺のでない者は、云うなら迷惑を感じておるという時代がやっぱあったです。けれども過程においてはやはりそういう所を通らせて頂かにぁならん。ああ、もうあの人が来らっしやるとしゃち金光様の話し聞かにぁんち。私は自分のお得意さんというのは、もう云うならばお道の信者にこの人は御縁が出けたなあとそう思うです。だから私が行ったらしゃち人くさり金光様の話しを聞かにぁならん。もう向こうが覚悟しとる。忙しか時やらつうっと裏さえ逃げち行くもん。してから大坪さんが来とるけんでお前聞いてくれち云うから嫁御さんばこれは唐人待ちの松岡さん所の今ても居られるそうですが衣料品店屋さんがありましたてすもん。そこは私か行くとしっかり私の話しば聞きなさります。荒戸の教会にお導きした方。自分が忙しい時はつうっと裏さえ逃げ出さっしやる。奥さんにてすね。お前や大坪さんの話しば一時聞いといてくれちいうような笑い話のような時代が御座いました。話さずにはおられない。だから有難く頂く人もいりぁ、迷惑しとる人もような時代。安東さん達もやっぱそういう感じがします。
 けれどもそこを通らせて頂いてです。始めて平日の通りといったようなね、おかげが頂けるのじゃないでしょうかね。それ程しの散髪屋さんがいっちょ現れて下さると信心の手篤い人から剃って貰ったり摘んで貰ろうたり出来ると思うですけれどもね。
 昨日沢山のお手紙が来ました中に、学院から学院生の人達が手紙を何人かよこしております中に和子さんが手紙を。
 永井肝四郎という先生が元学監をして居られました。合楽の本当の帰依をなさっておる方で御座います。ちよっと読んで見ましょうかね。少し。
 一昨日、布教取り次ぎ要目の時間、永井肝四郎先生が受持ちで御座いました。その折に、講義の前に脳卒中で倒れ只今御用から退かせて頂く様にお取り次ぎ頂かれ、教主様お許し下さったそうですけれども、学院長がもう一年受持ってくれと頼まれたそうです。その折り開口一番に云われましたのが、九州で大変おかげを頂いておられます合楽の親先生お言葉に、その心が決まりました。それは猪の事。いいですね。猪は恐い動物、皆逃げ回るけれども、猪狩りをする人は、むしろ鉄砲を構えて待ち構えている。恐いと思う事、難儀と思う事それは一切神愛。徳を頂く、力を頂くチヤンス。喜びに変える行く所に信心がある。終生お道の教師を志した者、その癒えず、足が動かなくとも徳を頂けば人は助かる。このお言葉に力づけられお受けしました。この感動が私の生涯を信心の元になりますと話され本当に皆感動しましたとあります。
 ああいう熱心にお徳を頂いておられる先生が脳卒中で丁度学課の始まる直前に倒れられた。すぐ教主金光様にお取り次ぎを頂かれて教職を辞める事を願われたら、教主様はそれをお許しになった。所が私は偉いと思いますよね。学院長が偉いと思います。「寝ながらでも良いから、もう一年間」と云われたそうです。その時開口一番、永井先生が云われておる事は、合楽の先生はこう云うておられる。こういう時が一番大事だと。例えば猪を狩りに鳥に行く人が、はあ猪が出て来たから恐いと逃げ回わる者はおらん。それこそ構えておるんだ。だからこの云うならばお徳を頂けるチャンスであり、力を受けるチャンスを与えて下さった神愛だと。合楽の先生はこう云われる。この事が大変感動したという事が書いてあった。
 その通りですよね。もう恐いと思う事。昨日は丁度敬親会で富永先生が月のお礼、いつも二十九日が月のお礼日、あちらの。それで信者さんを連れてお礼参りをして見えまして、いつも敬親会に参加されますけれども、その話しをさせて頂いた事でございますけれども、その事を私はここですぐ神様にお届けさせて頂きましたら、あのう「打つ」という字ですね。才へん。才へんはこう書いて、才へんというのはこうですよ。そして次ぎにすぐここにちょつと引っかけて頂いたんです。したら、才へんにこうしたら木へんになるでしょう。それは憎いから、叩いたのじぁないて。その気を起こさせる為のものだとこうおっしゃる。合楽の先生が云うておられる。そういう時こそ、神愛だとそういう心を起こさせる為に、叩いたのじぁない、そういう気を起こさせる為だという御理解を頂きました。
 だからその事を丁度富永先生があそこ一日余りを死ぬか生きるかという毎日を過ごされたけれども、それこそ一切神愛、神願有り難う御座います。それこそ医者にもかからず、薬一服飲まずにおかげを受けられたのも、その事によって力を受けられたのだという事を聞いてもらった事でした。
 しかしそのいう状態の中に、そりぁ本当にね。信じられる者は信じ、信じられるという事の素晴らしさ、もうそれこそ学院長が頼りにしておられる方ですね。永井肝四郎とい先生は。・ですから、「寝ながらでもよいからもう一度」とこうね。
 もう呼吸が合っておるというか、信じ信じとられねば云える事でも、受ける事でも出来る事ではない。
 そういうお手紙を、手紙の中から、そういう事を頂いての本当に尊い有難い事だなあ信心とはとこう思うのですけれども。なら今日の御理解から申しますとです。そういう所を通り抜けた人でなければ、平日の通りと云ったようなおかげは受けられん。
 これはもっとも見易うなんでもない表現でしてありますけれども、例えばこの御教えをね。女の方に限らんのだけれども、いよいよの時、教主様が右とおっしゃるから右と、本当にそれが素直に受け入れれるという事は平日の通りと同じ心だと思う。それを受けて、おかげを受けて、いよいよ自信がつき確信になって来る。おかげになって来る。ね。そこにです。云うならば信心ね。そして信心が白熱化してくる。信心の匂いがぷんぷんするごたる時代から、それが信心の香りにも変わって行く事になると、例えばお酒の匂いといえばいやですよね。酒飲みの側に来ただけでむうっと来るでしょう。あれは酒の匂いです。所が酒の香りと云うたら酒を飲まない人でもやっぱりいいなとこう思うでしょうが。ね。信心もそうです。信心の香りが漂うような、徳の香りが漂うような信心を目指して頂くその過程にです、やはりこの八十五節の今日のような御教えが本気で行じられる。
 私の方の家内なんかは、ええ、上二人はまあ普通のあれに倣いましたけれども、それこそ腹帯一つせずにおかげ頂いとります。云うならば腹帯はいらん。信心の帯をせよとこう云われる教祖様のお言葉をそのまま信じて頂いたわけなんです。ね。というように、それを信じて、それを行じられるという所です。だんだん平日の通りですね。毒断ちもいらないというようなおかげになって来た。平日の通りの云うなら平穏な心の状態で日々が過ごされるようなおかげを目指してお互い信心の稽古をするんですよね。どうぞ。